1.銀座の東
慶長8年(1603)の埋立工事で造成された銀座の東端は三十間堀東岸の木挽町まで。築地が出来たのは明暦3年(1657)の大火の後である。類焼した浜町の西本願寺が替え地を願い出たところ、幕府から与えられたのが100間(180m)四方の海面で、これを佃門徒をはじめとする多くの信徒たちが焼土で埋め立て、造成したのである。翌万治元年(1658)には本願寺本堂が建立され、やがて末寺57寺が置かれるほどに発展して行く。築地とは本来、埋立地の意味。埋め立てはその後も順次行われ、辺り一帯は武家地となっていった。一方、隣の木挽町にば寛永19年(1642)六丁目に山村座が、万治3年には五丁目に森田座が開かれ(いずれも江戸四座の一つ)、堺町・葦屋町(現人形町)とともに、江戸を代表する芝居町として賑わった。だが、山村座は正徳4年(1714)役者生島新五郎と大奥奥女中絵島との密通が発覚、両名遠流という絵島生島事件で廃絶。森田座も天保の改革で浅草猿若町に移された。守田座(森田座改め)は維新後、新富町に復帰、新富座と改名して一時代を築いた。また木挽町には明治22年(1889)歌舞伎座が登場して芝居町の伝統を復活させたのである。
2.築地居留地
安政5年(1858)の日米修好通商条約以来の約束ごとだった江戸開市(外国人居留地の設定)がようやく実施されたのは、明治元年(1868)11月のことである。築地の銃砲洲(明石町)に居留地を開くにあたり、明治新政府は築地が横浜のように内外の貿易商たちで賑わうことを予想し、また期待もして、海軍所跡(現在の築地市
場)には3階建て、客室200以上という築地ホテル館を建設した。
一方、新富町には、妓楼130軒、遊女1,700名以上という新島原遊郭がつくられたが、これらはすべて大失敗に終わった。外国人たちがあまり居住地に集まらなかったのである。もはやわざわざ東京まで出てこなくても、商売上の取り引きは横浜で充分済ませられたからだ。
新島原は明治4年には廃止、ホテル館も明治5年、銀座・築地大火で全焼した。これに追い打ちをかけたのが明治5年の新橋横浜間鉄道開通である。政府の思惑とは逆に、東京に出てきてもその日の内に汽車で帰れるために、横浜の外国人たちが東京に引っ越す意味はまるで無くなってしまったのだ。
ところが、明治6年になって江戸時代以来禁制であったキリスト教が解禁になると、居留地は一躍、布教活動のため東京にやってきたキリスト教宣教師たちの拠点となった。教会が一建ち、ミッションスクールが次々に開校し、さらには病院や各国大使館もできる。立教大学の前身である立教学院、明治学院の前身である東京三一神学校などもこのときできた。「ドチラをみても外国人の住宅ばかりで、ドコからとなくピアノの音や賛美歌のコーラスを開く時はエキゾチックな気分に陶酔する。ここへ来ると外国人と握手の一つもして日本語よりは英語を餞舌(しゃべ)りたくなり、基督教を奉じて賛美歌の一つも歌いたくなる。」(内田魯庵『読書放浪』)。一方で、治外法権下の居留地はギャングたちの不正取引き、阿片などの密貿易の舞台でもあったのだが、明治32年、条約改正の実現により、築地居留地は廃止された。ここが明石町と改称されたのはその時である。
3.堀部安兵衛34歳の生涯
堀部安兵衛はその34年の生涯に2度の仇討を果たした男。 最初は有名な高田馬場の決闘、そしてもっと有名な四十七士の討入である。
安兵衡は越後新発田藩溝口家中山弥次右衝門の息子。父は藩内でのいざこざがもとで謹慎中に悲運の病死を遂げた。安兵衛は中山家再興の一念を抱いて江戸に出たのである。住居は京橋水谷町(現八丁堀1丁目)の棟割長屋の一軒。武芸に精進し、また滅法強く、当時江戸随一と言われた麹町堀内道場の四天王のひとりに数えられたほとだ。また学問にも秀で、能筆で知られたという。本郷3丁目の“かねやす”の看板は安兵衛が頼まれて書いたものである(現在は高輪の泉岳寺が所蔵)。
高田馬場の決闘が、安兵衛25歳の元禄7年(1694)。安兵衛は叔父菅野六郎左衡門の助太刀に、八丁堀から高田馬場まで(直線距離にして約6kmである)一目散に突っ走ったという。その後、赤穂藩士堀部弥兵衛に婿入り。禄高200石で浅野内匠頭に仕えた。浅野邸は八丁堀のすぐ南、築地の鉄砲洲にあった。元禄14年、松の廊下の刃傷事件で浅野邸が没収されるまで、安兵衛はずっと八丁堀に住んでいた。同じ年の10月頃から本所林町五丁目に長江長左衛門という男が住みはじめた。これが実は、吉良邸の様子を探るために変装した安兵衛の世を忍ぶ仮の姿。作戦は成功し、安兵衛はまんまと吉良邸の絵図面を手にいれたのだった。
参考:柴田練三郎者「実説「安兵衝」」他
4.八丁堀の旦那衆/与力と同心
京橋川の東端から東にまっすぐ亀島川まで続く八丁堀が、船運のための運河として開削されたのは寛永年間(1624〜1644)のこと(戦後、埋め立てられた)。正徳3年(1713)以降、八丁堀北岸(現在の八丁堀1〜3丁目及び茅場町2・3丁目に至る)には江戸町奉行付き与力、同心達の組屋敷が置かれ、彼らは「八丁堀の旦那衆」と呼ばれた。八丁堀といえば、これら与力、同心の代名詞だったのである。彼らの主な任務は江戸市中の治安維持。 与力には歳番(財政、人事)の他、吟味役(裁判担当)という重大な役職もあった。犯罪者の捜査、逮捕にもっぱら当たったのは部下の同心である。与力の数は、南北町奉行所合わせて約50騎(と数えた)。
同心は南北合わせておよそ200〜240人。武士としては低い階級であったが、江戸の町をわずかこれだけの人数で取り締まるのだから、大変な力を持っていた。
八丁堀の七不思議のひとつに「女湯の刀掛け」といわれるものがあるが、与力には早朝女湯に無料で入れるという特典もあったのである。女湯に入ってどうするのかといえば、男湯で交わされる噂話を盗聴してニュースや情報を入手したのだ。もっとも与力がいるのはすぐにわかって、客が減り、風呂屋は大いに困ったという。
町奉行所の組織はきわめて円滑な官僚機構であったといわれ、与力・同心は世襲で引き継がれることが多かった。また彼らには他の武士と違って軍役の義務がなく、このことが、維新直後の混乱期に、町奉行所の機構・人員が市政裁判所へとスムーズに移行し得た大きな要因となったといわれている。
5.佃島へ
佃島最初の住民は、摂津西成郡佃村及び大和田村より移住した関西の漁師達であった。
ことの起こりは天正午間(1573〜92)。徳川家康は大坂の住吉神社に参拝した折、淀川支流神崎川の出水に遭遇した。このとき船を出し家康を渡卸させたのがこれらの村の漁師達。幕府が、彼らを江戸に召し出した時期
については、天正午間と慶長年間(1596〜1615)の二説に分かれるが、一行は海川漁御勝手の免許状を下付され、さらに鉄砲洲の東に浮かぶ小さな干潟を拝領した。干潟の埋め立てが行われたのは、寛永年間(1624〜44)。島名も、故郷の村にちなんで命名された。こうした佃島の成立事情は、独自の方言(佃ことば)にも反映され、動
くを「いのく」、彼方を「あっこ」というなど多少の関西なまりが見受けられたというが、今日では用いる人も少ない。
佃島の漁師達には毎年11月から3月まで、将軍に白魚を献納する特典が与えられ、その間の江戸前の白魚漁を独占した。彼らは曳綱、刺綱などを用いた関西式の大型漁法を導入し、立ち遅れていた関東の漁獲高を大幅に引き上げたという。また魚河岸の基礎を築いたのも、接津佃村出身の漁師、森孫右衛門連なのである。
明治3年(1870)再建の社殿が残る住吉神社は、佃島の初期より長く住民の信仰を集めた古社。「佃島は安政の地震にも助かったと云い、近年大正・昭和、二度の災禍も免れた、幸運の土地であるが、土地の人(中略)はすべてこれを住吉棟のおかげだとしている」(木村荘入)という。また築地の西本願寺に属する浄土真宗の信徒達は、
佃門徒と呼ばれ、強い結束力を誇っていたといわれる。
江戸下町とも一線を画す独自の世界を維持してきたこの島を、仏ル・モンド紙の記者ロベール・ギランはこう記している。「佃島は遠い国である。銀座から佃島までの距離は短い。しかしながら別世界に移ってしまう。騒音と激動の巨大都市東京と別れて静まり返った、おくゆかしい小さな独立国にはいる」(昭和36年、朝日新聞への寄稿)。事実、かつて佃島では、日本橋辺りに出かけるのでも「ちょいと、江戸へ行く」という表現がごく普通のものであったという。
6.江戸期の佃鳥
かつての佃島は、現在の佃一丁目に相当する、佃大橋橋詰北側のこく狭い地域だった。佃島北方の埋立地は、石川島(現佃2丁目)と呼ばれ寛政2年(1790)以来、人足寄場が置かれた所である。維新後は石川島監獄署となり、明治28年く1895)巣鴨に移転した。また、幕末期には日本初の洋式造船所が人足寄場西に設けられ、現在の石川島播磨重工の前身となった。石川島は、明治5年の町名改正で佃島と合併され、さらに明治29年の埋め立て完了により、現在の佃2−3丁目の地域は新佃よと呼ばれた。また同時期には月島l号地(現月島1〜4丁目)、2号地(現勝どき1−4丁目)の埋め立てもなされた。
今日、佃・月島の一帯は大川端再開発により、高層住宅街リバーシティが建設され、水と緑を中心とした新しい環境が形成された。
7.築地の魚河岸
築地の魚河岸は東京一朝の早い街である。大卸への搬入作業は夜を徹して行われ、配列が済むのは、午前4時頃。仲卸商たちの下見があって、有名なセリの始まるのが午前5時である。セリ人を勤める大卸の浪花節調のかけ声は、一般人には訳がわからない。もとより−般人の入れるところではなく、セリには一触即発、真剣味を越して殺気だったムードが漂うのである。
セリ終了が午前6時。場内約1,400店舗の仲卸店へ向けて、一斉に魚と人と車の大移動が始まる。信号も交通整理もない狭い路地のことだから、一般人など歩いていたら、トンでもない目に会うのである。仲卸開店は午前6時半。小売業者や寿司屋の仕入れでごったがえすのがここで、扱いはほとんどがキロ単位、相対売(互いの合意の値による取引)。営業は11時過ぎまで続く。一般客で賑わうのは、場内と晴海通りに挟まれた一角にひしめく、約600店舗の場外市場。魚はもちろん、食品一般(築地市場は野菜、果物なども扱っている)、道具顆と食に関するものなら何でも揃い、しかも安い。営業は午前6時から12時頃まで。場外の寿司屋は、ネタも新鮮、味はプロ相手だから言うまでもない。
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