沿道のコラム

(2)三社まつり・墨堤散歩(仲見世−桜橋1.5Km)

 明治23年に完成したエレベーター付き十二層の凌雲閣がそびえた浅草公園は、当時日本の最先端を行く行楽地。関東大震災後、六区はレビューのメッカとなり、チャールストンが街に響いた。

    1. 浅草紅団
    2. 三社祭
    3. 北斎、「北斎」を名乗る
    4. トーキーの到来

1.浅草寺縁起
    
 浅草という地名の由来については色々の説がある。チベット語の“アチャクチャ”(聖なる場所)から転じたものと主張する人もいるが、草深い武蔵野の内では草の浅い土地であったからというのが定説である。
 推古天皇36年(628)3月18日、隅田川で漁をしていた檜前(ひのくま)浜成・竹成兄弟の網に観音像がかかった。兄弟は郷司の土師真中知(はじのまつちのなかとも)と三人でこれをまつった。これが浅草寺の起こりである。
 その後、大化元年(645)、勝海上人が現在の位置に小さな御堂を建てて観音像を移し、夢のお告げに従って秘仏としたという。秘仏であるから、それ以後観音像を見た者は誰もいない。厨子の中に納められ、その厨子が傷むとそのまま別の新しい厨子の中に収めるという方式を繰り返してきたからだ。
 観音像の正体は、一寸八分(約5cm)の黄金像であるといわれている。小さな草堂が壮麗な観音堂となったのは、天慶5年(942)。武蔵守平公雅が建立した。浅草寺は、家康の江戸入府以前から、支院12ヶ坊を擁する大寺院として東国にその名をとどろかせていたという。
 浅草は、浅草寺の門前町として発展し、江戸時代には市中第一の盛り場となった。当時、浅草寺の境内、本堂西側の奥山と呼ばれる一角では、小屋掛けの見世物・曲独楽(こま)・辻講釈・居合い抜きなどの芸人たちが人気を集めていた。これが六区興業街のルーツである。

2.浅草公園と六区興業街
 
 明治6年(1873)、政府は各府県に公園の設置を指示した。東京府は浅草寺の境内を浅草公園とすることにした。浅草寺の境内には、江戸時代以来、見世物小屋や大道芸などで人気を集めた奥山という一角があったが、防火・防災のため、すぐ西側の田んぼを埋め立てて、そこへ見世物小屋をそっくり移転させた。これがそもそもの六区の起こりで、明治17年、浅草公園が六区画に分割された際、浅草寺本堂周辺を一区、仲見世を二区、伝法院を三区、奥山を四区、花屋敷を五区、そして奥山の見世物小屋を移した一帯が六区となったのである。
 当時の六区の名物は、有名な歌舞伎役者の顔形を摸して作った生き人形で、これを見せる店が軒並み立ち並んでいたという。大正時代には浅草オペラが隆盛し、東京中の人気をさらったが、大震災による六区興業街の壊滅と共に衰退した。復興後の六区では安来節が大はやり。オペラにかわって映画やレヴユーミュージカル・コメディの時代となる。
 ここに十二階の凌雲閣が開業したのが明治23年。凌雲閣は新潟県長岡の生糸商福原庄三郎が、エッフェル塔を摸して建てたもの。12階の高さ67mは当時の日本一。日本初のつるべ式エレベーターは故障ばかりしていた。関東大震災で8階からポッキリ折れ、ひょうたん池になだれ落ちた。展望台には人がいたが、落ちたのが池だったためか、その人は奇跡的に助かったという。ひょうたん池は昭和26年に埋めたてられ、浅草宝塚劇場(現東宝)などが建てられた。

3.エノケンとロツパ

 「震災でお客の心理が変った。近代性とスピーディー。ぽくは見物をアッといわせる芝居をやる。スピードがあって、シャレていて、音楽がついていて、踊りもあって、お客は笑わずにいられない喜劇。これこそ新境地だ」エノケンが自伝でこう回想しているのが昭和初期に衰退した浅草オペラにかわって六区を席巻したレビューである。
 エノケンは、浅草オペラというベースにアメリカのドタバタ喜劇の動きとセンスを導入した独自の芝居で、人気・実力共に六区の頂点に立ち、昭和7年には座員150名、オーケストラ25名という当時日本最大の劇団を松竹座で旗上げした。エノケンの月給3500円は大卒の初任給の70倍であった。
 翌昭和8年、常盤座に「笑の王国」という古川緑波、徳川夢声、渡辺篤らの劇団が生まれた。エノケンの人気独走を恐れた松竹が対抗馬として作ったもので、エノケンとロッパはこの時からライバル関係を運命づけられた。
 ロッパの芸風はエノケンとは対照的に、動きのないもっぱら話芸に頼るものだった。声帯模写というのはロッパの造語で、滅法うまかった。徳川夢声が急病で倒れたとき、ロッパは40分のラジオ放送に夢声の声色で出演し、聴取者をダマしおおせたというほどだ。
 このふたりのライバルは、昭和10年代のはじめ、東京の興業の中心地が浅草から丸の内に移ると、それぞれに新興の大劇場へと進出していったのである。
参考:小林信彦『F日本の喜劇人』

4.浅草紅団

 「大江戸をなつかしがっていることはない。私も諸君の前に一大正地震の後の区画整理で、新しく書き変えられた『昭和の地図』を広げよう。」川端康成が、『浅草紅団』を東京朝日新聞に連載開始したのは、昭和4年12月のこと。ほとんどが「だ」止めのダイナミックな文章が樵閑銃のように発射された。
 「その頃、春子は浅草で赤い一重帯をしめていたのだ。『赤帯会』という少女の団体があったのだ。ところが赤帯は天下の流行だった。これは娘たちには恐るべき魅力だ。」浅草の隆盛とそこに住む不良少年少女たちの生活を、川端は現在進行形で描いた。「カジノ・フオウリィは、地下鉄食堂の塔とともに、1930年代の浅草かもしれない。エロチシズムとナンセンスとスピイドと時事漫画風なユウモアとジャズ・ソングと女の足と−。」同年オープンしたばかりのレビュー劇場カジノ・フオーリーはこの一文でたちまち満員になる。
 だが一方で、川端は浅草の髪りも見逃さなかった。ジャズ・ダンスのタイトルは「銀座」。浅草は新興の盛り場銀座にその地位を譲りつつあった。都市小説『浅草紅団』は未完に終った。

5.三社祭
 
 浅草神社の三社祭は、江戸三大祭の一つで、観音様にちなんで3月17・18日に行われていた。当時は蔵前の大通りを多数の山車を伴って巡行した三基の神輿が、浅草御門(浅草橋北詰)の手前で舟に移され、大川(隅田川)を上る船渡御が盛大に行われたという。
 現在の三社祭は5月になり、土曜は氏子44カ町約100基の神輿、日曜には本社の連合神輿で盛り上り、人出は二日で100万人を超える盛況である。神社拝殿で行われる”びんざさら舞い”は、鎌倉時代からの伝承といわれる東京最古の年中行事で、無形文化財に指定されている。
 ちなみに、江戸三大祭とは、山王祭、神田祭に深川八幡祭または三社祭を加えて呼んだものである。

6.北斎、「北斎」を名乗る

 北斎の名は葛飾北斎だけではない。転居癖で知られる北斎の気まぐれは画号にも及んだ。その数、優に30余。有名な画狂老人というのも、その一つである。「天狗堂熱鉄」とか「卍」などというのもある。
 その北斎が北斎を名乗り始めたのは、寛政9年(1797)。画風もこの頃より独特のものになってきた。その才能はまず狂歌絵本で開花する。ユーモアと詩情の共存する狂歌は、北斎の気質にぴったりはまったのである。代表作に『東遊』『東都名所一監』『隅田川面岸一覧』などがある。その後本格的な風景画に移り、天保2年(1831)大作『富嶽三十六景』を完成。嘉永2年(1849)、浅草聖天町遍照院の仮寓で90年の生涯を閉じた。死に際し、「天われに10年、願わくば5年の寿命を延ばしてくれたなら真正の画工になったであろう」と語ったという。

7.トーキーの渡来

 日本にトーキーをもたらした最初の人物は、貿易商・皆川芳造であった。アメリカ人、デ・フォレスト博士の発明になる発声映画フォノフィルムを彼が新橋演舞場で公開したのは、大正14年(1925)7月、米国での試写後わずか2ヶ月余のことである。大統領クーリッジの演説からエデイ・カンターの寸劇まで、プログラムは盛りだくさんだったが反響は乏しかった。 当時まだトーキーは好事家の見世物としか思われていなかったのである。
 再渡米した皆川はフォレスト研究所で実習を積んだ後、大森にトーキースタジオを開設した。防音設備は壁に張った南京袋。戸外の騒音を避けるため、撮影は夜間しか出来なかった。こうして昭和2年に完成した映画「黎明」は、しかし発声不調のため公開を見送られる。フォノフィルムはいつのまにか時代遅れとなっていた。昭和4年、新方式のフォックス大作「進軍」の封切によって、日本はトーキー時代を迎えるのである。 参考:「日本映画発達史」

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