見どころ紹介

(2)三社まつり・墨堤散歩(仲見世−桜橋1.5Km)

●仲見世通り
 元禄の頃、浅草寺境内の掃除の賦役を課せられていた人々が、その代償として出店による営業の特権を得たのが仲見世の始まり。浅草広小路と仁王門(現宝蔵門)との中間というのがその名の由来といわれる。

●伝法院
 伝法院は浅草寺の本坊(住職の宿坊の事)である。小堀遠州作といわれる江戸初期の回遊式庭園が見事。天明年間(18世紀末)尾張の茶人牧野作兵衛が京都表干家の茶室不審庵を模倣して建てた天祐庵がある。

●スターの広場
 映画、演劇、オペラなど大衆芸能ゆかりの地浅草のシンボルとして、浅草公会堂前庭に設けられた「スターの広場」。市川右大衡門、市川猿之助、勝新太郎、杉村春子、田谷力三、坊屋三郎、山田五十鈴、由利徹……等々、総勢102名の芸能人の手形とサインが並べられており、今後もさらに充実していく予定という。なお、今は亡きエノケンの手形はなく、ただサインのみ残されている。

●浅草寺
 昭和20年3月の戦災により、国宝である本堂・仁王門・五重塔は焼失、災禍を免れたのは二天門のみであったが、33年に本堂が、また39年に宝蔵門(旧仁王門)、48年に五重塔が鉄筋コンクリート造りで再建され、寺域の景観は往時を凌いでいる。また本堂西側の東照宮跡地にある六角堂は室町時代のもので、石造階と呼ばれる石橋(17世紀前半建造)や六地蔵石燈籠〈建立年代不明)と共に古い文化財である。

●浅草神社
 浅草寺に本尊として観音像を拝した郷司土師真中知(はじのまつちのなかとも)、檜前浜成・竹成兄弟の三人を祀ったのが浅草神社であり、三社さまと呼ばれる由縁である。現在の社殿は慶安2年(1649)徳川家光により再建されたもの。

●映画弁士塚
 無声映画に説明者(弁士)をつけるのは世界中で日本だけだった。その全盛期には、有名弁士の人気は映画スターを凌いだという。そういう“古き良き”時代を偲び、昭和39年、新東宝社長(当時)大蔵貢により建立され、徳川夢声、大辻司郎、松田春翠ら弁士106名の名が刻まれている。ちなみに日本最初の映画館は浅草六区の電気館である。

●姥ヶ池跡
 いわゆる石枕伝説の舞台となった姥ヶ池は、今日その跡に碑を残すのみである。昔、浅茅ヶ原の一軒家に住んでいた老女。美貌の娘をおとりにして旅人に一夜の宿をかしては、寝込んだところを石を落して殺し、身ぐるみはいでいた。その数999人。これを見た浅草観音は若衆に変化して訪れる。例のごとく手に掛けてみれば、頭を砕かれ死んだのは自分の娘であった。美しい旅人を逃がすため身替りになったのである。千人目の客で老女は仏眼を開き、竜となって池に消えた。この石枕伝説は、また一ツ家伝説ともいい、これを描いた歌川国芳の絵馬が浅草寺に今も伝わる。

●助六歌碑
 御存じ歌舞伎十六番「助六」は、正徳3年(1713)二代目が初演して以来、代々の市川団十郎が家芸として伝えていた演目である。この碑は九代目団十郎自作自筆の歌を刻んだもので、明治12年(1879)山谷仰願寺境内に建立。昭和33年花川戸の地に移建された。「助六にゆかりの雲の紫を弥陀の利剣で鬼は外なり 団州」

●桜橋
 台東区から墨田区へ架かる桜橋は、X字型の優美な曲線が人目をひく。隅田川を挟んだ両岸の隅田公園を結ぶために、昭和53年に建造された歩行者専用の橋である。広場風の中央部は、イベントスペースとしても使用可能。また、両岸の橋のたもとには、ゆるやかな堤防や水辺テラスが設けられ、川面まで下りていける。

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