1.隅田川
「自分はどうして、こうもあの川を愛するのか。」隅田川の近くの町で生まれた芥川龍之介は随筆『大川の水』でそう自分に問いかける。隅田川に接するたび、「自分の住んでいる世界から遠ざかって、なつかしい思慕と追憶との国にはいるような心もちがした」とも。芥川にとって隅田川は強く郷愁を感じる場であったのだろう。
明治以後、隅田川は急速に近代化の進んだ東京にあって、なおも下町情緒をとどめてきた川である。そういう川にノスタルジーを感じたのは芥川龍之介だけではなかった。永井荷風、谷崎潤一郎、木下杢太郎など数多くの作家・詩人が隅田川にノスタルジーを感じて作品を作ってきたのである。
ところで、千住では千住川、浅草では浅草川や宮戸川、それより下流では大川というように、川のそばに住む人々はそれぞれに親しみをこめて隅田川に名をつけてきた。
現在よく使われる隅田川の名の由来には諸説があってはっきりしない。昔、鐘ヶ淵あたりにあった須田村からとってつけられた「須田川」がなまって「隅田川」になったのだという説もあれば、酒が作れるほど水が「すんだ川」だったからという説もある。いずれにせよ隅田川は多くの人々に親しまれ、これからも親しまれ続けることだろう。
2.五銭になっても一銭蒸気
明治18年(1885)隅田川汽船株式会社によって、吾妻僑と永代橋間に蒸気船が運行を始めた。当初は白蒸気といったというが、一区一銭という値段が親しまれて、いつしか一銭蒸気の異名をとった。これに対抗して同34年に創業した千住吾妻汽船株式会社は青蒸気を名のり、吾妻橋、言問、白髭橋、水神、鐘ヶ淵、汐入、そして千住大橋というコースを往復した。当初は隅田川に橋が少なかったところから渡し舟の役目も担い、かなりの評判だったという。水面に浮かんで絶えず揺れている待合所は陸上とはまるで違った雰囲気で、やっと来た一銭蒸気に乗り込むと今度は、絵本売りが口上を述べ土産にと売って回る。日露戦争の後に二銭となり、さらに五銭になるが、一銭蒸気の愛称は変わらなかった。今日、最新型の水上パスが、吾妻橋と日の出桟橋間を運行し、人気を博している。
3.隅田川七福神
古来「七」は陽を表わすめでたい数である。七五三の筆頭であり、七五三縄と書いて「しめなわ」と読む。めでたい数だけ神が集まる七福神は、庶民の格好の信仰対象であった。室町時代末には七福神盗賊なる盗賊も出現。七福神のなりをして忍び入り、人々は喜んで財物を与えたという。
しかし七福神が今のメンバーに固定したのは、江戸時代中頃からである。文化元年(1804)、向島百花園に集まった石川雅望・酒井泡一・大田蜀山人・亀田鵬斎などの文人墨客たち。園主佐原鞠塢の所有していた福禄寿像に目をつけ、何とか向島に七福神を揃えたいものだと考えた。詮索の未、他の六神は次の五ヶ所に決まった。即ち三囲神社(恵比寿・大黒天)・弘福寺(布袋尊)・長命寺(弁財天)・白賀神社(寿老神)・多開寺(毘沙門天)。このうち白髭神社の本来の祭神は猿田彦神であるが、白髭にちなみ寿老人に見立てたのである。従って御神体は神社そのもの、隅田川七福神めぐりでは寿老神と書くのが習わしである。
4.墨堤、すみだのつつみ
白髭橋から綾瀬橋の間に続く墨堤通り。その名の通り土手=堤であった。今でも通りの東側、家々がひしめく一帯は低地となっている。慶長年間の大堤造築の際、堤と川の間の人家をすべてこちら側に移した。故に西側の地域はかつて元隅田とよばれた。低湿地帯であったが、現在では高層住宅が立ち並んでいる。
墨堤通りの北部、現在では東武伊勢崎線の駅名にその名を残す鐘ヶ淵。俗説では昔、普門院なる寺の鐘が舟から落ちて沈んだことによるという。幸田露伴はこれに異を唱え、川の形が曲尺の如く曲折することから、曲尺が淵とよんだのではないかと書いている。
5.墨東綺譚
昭和11年、小説の取材のために吉原へおもむいた永井荷風は、たまたま足をのばした向島玉の井に心魅かれる。荷風は9月20日、日記に「この町を背景となす小説の腹案漸く成すを得たり」と記す。翌日からほぼ連日、玉の井を取材。10月7日、「終日執筆」。1ヶ月後に完成したのが『墨東綺譚』である。
のどかな農村地帯だった玉の井が繁華街に一変したのは農災後のこと。浅草から移転した料亭や商店が農道
沿いに建ち並んで、迷路状の町が形づくられた。「ごたごた建て連った商店の間の路地口には『ぬけられます』とか、『安全通路』とか、『京成バス近道』とか、或いは『オトメ街』或いは『賑本通』など書いた灯がついている。」(『墨東綺譚』) 震災後の東京の姿を描こうとした荷風にとって、この地はかっこうの素材だったのだろう。
作者を思わせる主人公と玉の井の女性お雪の恋と別れを描いたこの作品は、発表当時から極めて高い評価を
うけた。連載していた朝日新聞は夕刊立売りがたちまち売りきれになったという。戦争の色がますます濃くなっていく中、人々はこの件品にやすらぎを見出したのかもしれない。
6.榎本武揚北へ
幕府が崩壊した慶応4年(1868)、当時の海軍副総裁・榎本武揚は艦隊を率いて函館五稜郭に籠城、新政府に抗戦して正式に北海道独立を宣言した。
この独立宣言の後、入札(選挙)で榎本武揚は総裁に選ばれたが、総裁としての彼の関心は、戦争よりも文久2年(1862)からの5年間のヨーロッパ留学体験をいかした近代的な国家づくりにあったようである。そのため五稜郭は要塞というよりも学校に近く、化学の実験や語学の授業、新しい採鉱法の研究などが行われていた。また彼は日本で最初の赤十字を作ったりしている。
こうした彼の行動に対し、勝海舟と裏で通じているという説も出た。内戦を避けるために旧幕府の不満分子を率いて形だけの戦いを行ったにすぎないというのである。事実、榎本は捕虜を殺さずに帰りたい者はまとめて内地へ送り返していただけでなく、味方の中からさえ帰農したい者がいれば次々と帰農させていたという。
彼の近代的な国家づくりの試みは明治2年(1869)、新政府軍に降伏したことによって中断する。東京では彼を死刑にすべきか、その才能を認めて登用すべきかでもめたが、その間、榎本武揚は牢名主となって他の囚人に文字を教えたりしていた。
またこの頃、彼は家族の生活を考えて遠縁の福沢諭吉から化学書を借り、石けんの製造法を手紙に書いたというが、それを読んで製造に取りくんだ親戚が今の資生堂の元祖だそうである。参考:日本放送出版協会「歴史への招待14」
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