●隅田公園
隅田川といえば、江戸時代以来の庶民の行楽地。この江戸情緒が濃厚な川に関東大震災後、大正モダニズムの影響をうけた公園が建設された。浜町公園、綿糸公園と並ぶ震災復興の三大公園の一つ、隅田公園である。
隅田公園はそれまでの隅田川の風景を一新した。ローヌ河やナポリの美しい水辺をモデルにした設計は、当時きわめて斬新なものであったという。川端康成は『浅草紅団』で、「隅田公園は大地に描いた設計図のやうに、装飾が少なく、清潔なHだ。つまり、向島堤と浅草河岸との二本の直線の真中を、言問橋が結んでゐるのだ。」と書いている。
隅田公園は現在も、春は向島側の墨堤桜の花見で、夏は両国の花火で、多くの人々が訪れてにぎわっている。
なお、公園の管理は昭和50年に都から墨田区と台東区へと移った。
●浅草猿若町碑
天保改革(1841〜1843)で老中水野忠邦は、堺町の中村座、葺屋町の市村座、木挽町の森田座(江戸三座)を猿若町のそれぞれ一丁目、二丁目、三丁日へと移した。このような芝居町は前例がなく、明治に至る20数年間大変な賑いを見せた。町名は江戸芝居の始祖猿若(中村)勘三郎にちなむ。
●花の碑
「春のうららの隅田川」ではじまる武島羽衣作詞、滝廉太郎作曲の「花」を顕彰して昭和33年建碑。
●待乳山聖天
関東三聖天のひとつ待乳山聖天は浅草寺の子院である。縁起によると、推古朝の3年(595)に突然待乳山が盛りあがり、金龍が天下ってこの山を守ったというから浅草寺創建より古い。待乳は真中知(まつち)に通じ、その事から土師真中知の墓所かともいわれる。本尊は聖天歓喜天で、夫婦和合の御利益がある。境内にはトーキー
渡来之碑が立つ。
●今戸橋
山谷堀にかかっていた9つの橋のうち今戸橋は一番下流にある。かつて山谷堀は吉原への通路のひとつだった。浅草紙はここの産で、職人が紙漉の合間に冷えた足で吉原をのぞくので「ひやかす」の言葉がうまれたともいう。今戸橋は小説や映画の舞台としても多く登場している。永井荷風の「すみだ川」、広津柳浪「今戸心中」、久保田万太郎「春泥」など。現在の橋は大正15年建架の石造りである。
●言問橋・竹屋の渡跡碑
言問という地名は業平の「いざこととはん都鳥」の歌から来ている。昭和3年に橋ができるまでは今戸橋あたりと三囲神社を結ぶ竹屋の渡し舟が利用された。竹尾の渡跡碑は今戸橋の近くにある。
●牛島神社
貞観2年(860)に創建。本殿近くの撫午には、自分の具合の悪いところと同じ部分を撫でると病気が治るという言伝えがある。境内には、落語を自作自演し、落語中興の祖といわれた江戸後期の戯作者、鳥亭焉馬(うていえんば)の碑もある。
●三囲神社
慶長年間(1596〜1615)に現在地に移転。隅田川七福神の恵比寿・大黒天をまつる。雨乞の句碑は、元禄6年(1693)に宝井其角(たからいきかく)が雨乞をする農民に請われてよんだ「ゆふだちや田をみめぐりの神ならば」の句を刻んだ碑。他に白狐祠の狐のお告げを伝えた老翁老嫗の石像がある。
●弘福寺
隅田川七福神の布袋をまつるこの寺は廷宝2年(1674)に開かれた。境内には、江戸末期の儒学看で地理物産学の研究家でもある文学三侯の一人・池田冠山の墓がある。
●長命寺
弁財天をまつっている寺。国学者で天保の四大家の一人橘守部の墓や幕末の幕府会計副総裁で維新後は朝野新聞社長として活躍した成島柳北の碑などが有名である。長命寺の境内から土手をあがった所に、長命寺の桜もちがある。墨堤の桜の葉を利用したこの桜もちは、享保3年(1717)の生まれ。数に限りがあるので花見時は予約をしないと買えないという。
●向島百花園
「隅田川梅のもとにてわれ死なば 春吹く風のこやしともなれ」 向島百花園をこよなく愛した初代園主、佐原鞠塢の辞世の句である。今は春・秋の七草で知られる百花園も、当初は梅が中心であった。梅は百花に先がけて咲くの意で、この名がつけられた。鞠塢は仙台の人、骨董屋で財を成し文化元年(1804)隠棲して百花園を開く。園には鞠塢と交遊のあった文人墨客が集まり、自らの手で木を植え、亀田鵬斎の「墨陀梅荘記(すみだばいそうのき)」の碑は特に有名である。
●今戸焼
今戸炊が素朴だといわれているのは、それが福助や招き猫、たぬきの腹鼓といった人形や、蚊遣りのぶたなどの庶民的素材を扱っているからばかりではない。たとえば、これらの人形のうしろにつけられた大きな切り込み。それは、そこに火種を置いた江戸の人々の生活の名残りであることを見逃してはならない。
●墨堤植桜之碑
墨堤の桜は享保10年(1725)に徳川吉宗が植えさせたのがはじまり。植桜碑は明治16年(1883)に大倉喜八郎、成島柳北が補植をしたことを記念して同20年(1887)に建てられた。
●常夜燈
牛島神社の常夜燈として建立されたが、これを残して神社は昭和7年に移転した。江戸時代、隅田川を往来する船はこの常夜燈を目あてにかじをとったという。
●幸田露伴住居跡
幸田露伴は明治33年(1900)から大正12年(1923)まで蝸牛庵と名づけた家に住んでいた。昭和38年その跡地は露伴児童遊園となった。公園内には「五重塔」にちなんだジャングルジムなどがある。
●子育地蔵
文化年間(1804〜1817)隅田川堤防修理の際に掘り出されたもので、今も信仰が深い。堂の周辺には寛文3年(1663)在銘のものをはじめ六基もの庚申塔がある。ここと白髭神社を結ぶ弓形の裏通りには旧墨堤通りの碑がある。
●白髭神社
天暦5年(951)に建てられたのがはじまり。七福神めぐりの寿老神で有名。ここには幕末の外国奉行で開国論をとなえ、安政3年(1856)の通商条約締結で活躍した岩瀬鴎所(忠震)の墓碑がある。
●岩瀬忠震終焉地
将軍家定の継嗣選定問題で井伊直弼と対立した岩頼忠震(ただなり)は、安政6年(1859)に失脚。文久元年(1861)に亡くなるまで向島の屋敷(岐雲園)に住んでいた。
●白髭橋
ここにはもと橋場の渡しがあったが、大正3年(1914)地元有志が白髭橋株式会社を設立、渡り賃一銭の木橋を架けた。昭和6年、現在の鉄橋に架け替えられた。
●隅田川神社
治承4年(1180)源頼朝がこの地に来た時に水神をあがめて建てた神社なので水神社ともいう。天明年間(1781〜1789)に狂歌師・元の木網のよんだ「けふよりも衣は染つ墨田川 流れわたりて世をわたらばや」を刻んだ碑がある。
●正福寺
慶長7年(1602)創建。本堂前の板碑は宝治2年(1248)のもので都内最古である。門前の首塚地蔵は天保4年(1833)隅田川の工事の時に掘りだされた人間の頭骨をまつったもの。首から上の病に御利益があるという。
●榎本武揚像
幕府倒壊の際、艦隊を率いて函館にこもり官軍に抗した榎本武揚は、降伏後に許され、海軍中将、外務大臣などを歴任、政治家として手腕をふるった。明治41年(1908)73歳で亡くなるまで、向島に住んだ。銅像は大正2年(1913)の建立。
●多聞寺
天徳年間(957〜961)に創建。隅田川七福神の毘沙門天をまつっている。約四百年前に多聞寺がこの地に移った時、狸が棲家を荒されたのを怒って悪戯をするようになった。そこで寺の毘沙門天に祈ると善尼子童子が現れて狸をこらしめたという。狸塚はその狸を葬った場所。
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