1.両国橋縁起
明暦の大火(1657)の時、伝馬町の脱獄囚逃亡を防ぐため浅草南詰の御門が閉ざされた。このため日本橋方面から避難してきた人々が足どめされて逃げ場を失い、多くの犠牲者を出した。隅田川を江戸東方を守る天然の要害と位置づけ軍事対策を優先させて来た幕府は、これを機に災害対策重視への転換を迫られる。隅田川東岸の開発も急務の1つであった。これらの要因から具体化されたのが万治2年(1659)の隅田川架橋。武蔵国と下総国を結ぶ意味から、両国橋と呼ばれるようになった。
その後、橋周辺は交通の要地として栄え、防災用の広場である両橋詰の広小路付近は「盛り場」となる。両国橋は新しい都市文化のシンボルとして、多くの浮世絵に描かれた。当時の様子を平賀源内は次のように記している。
「(両国橋に集まる)さまざまな風俗、色々の顔つき、押しわけられぬ人群集は、諸家の人家を空しくして来るかと思われ、ごみほこりの空に満つるは、世界の雲も此処より生ずる心地ぞせらる。」
2.川開きと花火大会
江戸時代、両国の川開きは毎年、旧暦の5月28日からの3カ月間。川筋の各店は夜半まで営業し、隅田川には幾艘もの涼み船が出された。江戸っ子たちのレクリエーションの期間である。中でも初日に開かれる花火人会は江戸最大の人気行事。橋の上流では玉屋が、下流では鍵屋が打ちあげ、互いの技を競った。現在では隅田川花火大会として、東京の夏に欠かせない風物詩となっている。
3.大相撲のルーツ
現在も相撲番付の中央に見られる「蒙御免」の文字。江戸時代の勧進相撲の名残りである。興行前に寺社奉行所の許可を得るのが、当時の慣例。奉行所の「御許し」を「蒙った」公式の相撲という意味である。深川で開かれた当初は、江戸における寺院建立のための文字通りの「勧進」行為であった。これが宝永年間になると奉行所に提出する願書に「為渡世勧進相撲致度」とあり、相撲興行の目的が営利になっていったことがわかる。木戸銭を払う人場者を集めるのに、人出の多い両国は絶好の地であった。天明以降の開催地が本所回向院に定者したのも、そんな理由による。
当時の相撲は屋外興行。開放的な雰囲気の中で人々は人気力士の取組に歓声を上げた。しかし雨の日には客足がガタッと減り、それを防ぐため「晴天十日」の但し書きつきで興打が打たれた。これを消化するのは結構大変だったらしい。雨で日程がのびるのは常で、例えば嘉永6年(1853)の春場所は48日かかっている。天保12年(1841)の同場所が終わったのは何と6月のことだった。最初の常設館である旧両国国技館の開設は明治42年(1909)、回向院での興行は76年間続いた。江戸時代の相撲風俗は現在とは多くの点で異なっていた。土俵構造からいえば屋根を支える4本柱の存在。当初は赤1色、安政5年(1858)からは四季と方角の守護神を示す青赤白黒の4色に分けられるようになる。土俵上、柱の前には4人の審判委員が陣取り、見物には不便な状態だった。行司の服装も今と異なる裃姿。見物客は男ばかりだが、これは当時女性の入場が禁止されていたためであった。
4.江戸の巨人カ士
現在は大型力士の時代。現役力士の多くが歴代体重ランクの上位に顔を出している。中でも200キロをこえる小錦は文句なしに史上最高。明和期に大巨人とよばれた釈迦ヶ嶽雲右御門(172キロ)をはるかに上回っている。これが身長になると、江戸時代には2メートルを越す巨人力士が何人かいた。ナンバーワンは天保期の生月鯨太左衛門(229センチ)。母親が鯨の夢を見て妊娠したのが名の由来。文政期の大空式左衛門(228センチ)は、牛をまたいで渡るという巨人。大食ぶりも有名で、酒5升のあとに米5升をたいらげたという。これら巨人力士はいずれも、ひとり土俵入りの客よせ用、中には相撲のとれぬ者もいた。同じような理由から、江戸時代にはちびっ子力士といえる怪童たちがいた。寛政6年(1894)に現われた大童山は、7歳にして身長l15センチ、体重71キロ。愛くるしい顔立ちとあいまって人気をよんだ。謎の絵師写楽が残した数少ない相撲絵には、いずれもこの大童山が描かれている。碁盤を振り回してローソクの火を消す大童山などの絵に、おちやめな怪童ぶりがうかがえる。
彼の亜流は続々と現われ明治後期まで続いたが、多くは力士として大成せずに終わった。
5.町人の代表、札差
幕府家臣である旗本・御家人は、家禄の支払われ方の違いから大きく地方知行と蔵米取に分かれていた。地方知行は一定の領地を与えられて、そこの農民から年貢をとりたてる、いわば小規模な大名のようなもの。蔵米取は領地の代わりに年々一定額の米を浅草の御蔵から支給され、これを米問屋に売却して金にかえることで生計をたてていた。
さて札差とは、俸禄米の受領から売却にいたるまでの面倒な手続き一切を旗本・御家人に代わって請負う商売。ところが元禄時代を過ぎる頃から、収入が固定している旗本・卸家人たちは、消費水準の高まりにつれて次第に財政難に陥り、俸禄米を担保に札差から借金をするようになっていった。札差は、蔵米の支給日に手数料ほか貸金の元利を差し引く、一種の金融業者へと変化したのである。
享保8年(1723)、蔵前の札差109人は、株仲間の結成を願いでる連名の願書を町奉行頼に提出、翌年認可を受けた。わずか100人余りで、俸禄米に頼る族本、御家人の大多数を牛耳ったことになる。かくして札差は、強大な財力を背景に武士を圧倒、その繁栄は田沼意次の時代(1767〜86)から文化・文政期にかけて頂点に達した。身分の上下を金の力でくつがえした札差たちの姿に、江戸の町人たちは喝采を送ったといわれる。
ところで札差たちの名を高からしめたのは、元禄の遺風を心意気とした豪快な浪費ぶりであった。その代表にあげられるのが、18人の大通人と呼ばれる評判者、略して十八大通。「通」といっても洗練にはほど遠く、奇矯なふるまいと贅沢三昧で周囲を驚かせる型破りの人々であった。
牢内で世話になった博徒ツン吉に礼金百両をさし出した下野堪十右衛門、腹いせまじりに髪結床を破壊し、普請代だといって20両をポンと置いて去っていった利倉屋庄左衛門など、彼らの理解を超えた言動は、三升屋二三治の「十八大通一名御蔵前馬鹿物語」に記されている。
大通たちの気風は「蔵前風」と呼ばれ、歌舞伎十八番の「肋六」はその象徴的キャラクターであった。大通の1人、大口屋治兵衛などは、助六の粉装で吉原遊びをしたという。
6.悪漢、向坂甚内
慶長年間、江戸には犯罪の嵐が吹き荒れていた。幕府成立のかげで滅びていった大名たち、その一族郎党が盗賊団に変じ、新興都市江戸に群がって釆たのだ。手を焼いた幕府は泥棒の頭を捕え、その者に泥棒を捕えさせた。蛇の道はヘビ、泥棒による泥棒退治という訳だ。その筆頭に挙げられるのが向坂甚内、悪名高き江戸の三甚内の中でも群を抜く無法者である。当時最大の盗賊団は北条家のスパイ役だった風摩一族だが、これを甚内は見事に討伐してのけた。が、その後も泥棒家業を続け、遂に慶長18年(1613)オコリ(マラリヤ)のために捕えられ鳥越の刑場で轢にされた。その時甚内は「オコリに苦しむ者は我を念ぜよ」と叫び、以来オコリを治す神様になったという。鳥越の甚内神社はこの向坂甚内を祀ったものである。
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