1.三宅坂界隈
桜田門あたりから皇居を右に眺めつつ、内堀通りを桜田堀沿いに上る大きな坂、これが三宅坂である。
この坂はもともと勾配の急な坂であった。むかしはいかにも下町から山の手へ上るといった景観だったというが、今は傾斜もゆるく幅もはるかに広い。岡本綺堂『綺堂むかし語り −御堀端三題』によれば「この坂も今よりは峻しかった。
そこで下町から重い荷車を挽いて釆た者は、ここから後押しを頼むことになる。立ちン坊はその後押しを目あてに稼ぎに出ているのである。距離の遠近によって二銭三銭、それを1日に数回も往復する
ので、その当時の彼等としては優に生活が出来た」という。この付近一帯には、江戸時代武家屋敷が立ち並び、三宅坂の名も三河(愛知県)田原藩主三宅備前守上屋敷に由来する。幕末の蘭学者渡辺華山は、この藩邸の生まれ。明治初年には陸軍省、陸軍参謀本部など軍関係の施設が集まり、以後の富囲強兵政策の中枢となる。
現在、国立劇場や最高裁判所の立つあたりは、軍医本部や陸軍病院の敷地であった。国立劇場は、伝統芸能の公開、保存、振興を目的に昭和41年(1966)に竣工。最高裁判所の竣工は昭和49年である。
2.桜の千鳥ヶ淵
千鳥ヶ淵公園は、北の丸公園の西隣、番町に面する堀を中心にした水上公園。千鳥ヶ淵は徳川幕府開府以前からあった大池で、江戸域内堀の一部に組みこまれた。その名のいわれには二説あり、堀の形が千鳥に似ているからとも、たくさんの渡り鳥が集まる場所だからともいわれている。
ここは都内でも有数の桜の名所。公園の森を縁どるように桜が植えこまれ、草土手の斜面にもまた桜。その数は2千本といわれ、4月の開花期には、たいへんな賑いとなる。公園の西側、一番町一番地にある英国大使館前も桜並木で有名。英国公使アーネスト・サトウによって植樹されたのが始まりで、明治30年(1897)頃、東京市に寄贈された。現在も、大使館前に何本かの老樹をみることができる。
昭和53年に完成された千鳥ヶ淵ガーデンロードは、堀にぴったり沿うように走る庭園風の散歩道。敷石で整備された歩道が、約800m続く。道沿いは、桜の木を主に、ツツジやササンカでぴっしり埋めつくされ、四季それぞれの花で彩られる。
3.夭折の天才音楽家
滝廉太郎は明治12年(1879)8月24日東京で生まれ、11歳のとき大分県に移った。幼少の頃より音楽的才能を発揮、アコーディオン、ハーモニカ、ヴァ
イオリン、また尺八なとも見事に演奏し、級友たちを驚嘆きせたという。
明治27年、15歳の廉太郎は上京、麹町平河町の従兄滝大吉の家におちつき、東京音楽学校に入学、卒業後は母校の教師となった。廉太郎は明治34年に文部省留学生としてドイツに留学するまで滝大吉方に起居した。その間、大吉家は4回転居したが、現在記念の碑が立っているのは廉太郎が最後に住んだ麹町上二番町(現千代田区一番町)である。「荒城の月」「四季」「箱根八里」などの名曲はここで作曲された。
ところでそれらの名曲と同時期に、廉太郎が幼稚園唱歌を作曲していたことはあまり知られていない。「子供たちによくわかり、楽しんで歌える、はなし言葉の歌はできないものだろうか」という要望に答え、音楽学校の先生東くめの詞に曲をつけた。「私の歌が一つできて、それを滝さんに渡すと、彼はその歌を読むとすぐ鼻歌でも歌うように五線紙に曲を書いた。あの「鳩ぽっぽ」の歌は私の最初のもので、滝さんにみせると、「これはよい歌だ」と口ずさみながらいかにも楽しそうにその場で作曲した。」(東くめ夫人の回想)「鳩ぽっば」や「お正月」など、誰もが口ずさむことのできる有名な童謡を廉太郎は作曲した。
明治34年、ドイツに渡った廉太郎はライプチヒ国立音楽学校に学んだが、胸を病んで帰国。明治36年、大分市で死去、23歳と10ヶ月の若さであった。
4.番町の由来
番町、つまり麹町台地を中心に九段上から四谷見附あたりに至る地域は、江戸時代、主に番方(徳川家親衛の戦闘部隊)を中心とする旗本の武家屋敷地帯として開発された。番町の名の起こりは、この番方に由来する。臨海の平山城であった江戸城の周辺は、湿地が多く、宅地として利用できる地域は山の手の台地に限られていた。地勢に恵まれ開発の容易な麹町台地一帯は、武家用地としては最適だったのである。また、この地域に番方が集団配置されたのは、軍事的な理由にもよるという。半蔵門から四谷見附に通ずる旧国府路(甲州街道の原型)は、江戸城防衛上の要となる地点だったのである。番町は、江戸城下町の一郭として、一番町から六番町まで非常に計画的に構成されていたが、そうした江戸期の町割が今でもそのまま残っている。この番町において興味深いのは、格子状の道路が遠く富士山を望む方向に合わせて造られていることである。かつて、この道沿いからはるか前方に富士の姿が望めたといわれる。現在の法政大学一裏手に摸する「富士見坂」の名にその名残りを知ることができる。
5.千鳥ヶ淵の石垣
千鳥ヶ淵あたりにみる石垣の景観は美しい。大小さまざまな石が粗積みされており、一分のスキなく築かれた西欧の石垣と好対照である。これは、地震や台風などの自然災害に対する予防策として生み出された、日本人の知恵である。粗く積み上げられた石のすき聞から雨水を流し出し、かつ地震による振動エネルギーをも逃がすのである。また堀に水をたたえるのも、軍事上の目的ばかりでなくこのエネルギーを水に吸収させ柔らげるものであるという(樋口清之『梅干と日本刀』)。石垣をかたちづくる石材は、伊豆産のものが多いが、全国より江戸へ運び込まれたものである。例えば本丸中門にある大石は、加藤清正が熊本から運んだものといわれる。海路で石を運ぶに際しては「石釣船」なる特殊な船を用いた。これは水の浮力を用するもので、船の中央に石を中で釣るための矩形の穴をあけ両側に石を釣るロクロを設けたのであった。西国の大名たちはこの船を使って美しい摂津の御影を江戸へ運んだ。
6.江戸を戦火より救った男
慶応4年(1868)、官軍は、遂に江戸城への無血入城を果たす。だが、江戸城に本営をおく官軍総督府は、事実上、江戸中の幕臣たちに包囲されたかたちとなっていた。徳川家謝恩の旗印の下、次第に勢力を増していく上野の彰義隊に対しても、官軍側はいたって寛大な対応で正面きっての衝突を避け続けた。
その頃、ひとりの男が京都より派遣されてくる。軍防事務局権判事、大村益次郎。彼の江戸城到着とともに彰義隊討伐の計画は一気に具体化する。明治兵制の開拓者として知られる益次郎は、この作戦を立案するにあたり江戸大火の歴史を徹底的に調べ上げ、地図を描き、大火の条件、防火方法などを綿密に検討したという。実際、決戦に際しては、舞台をあくまで上野山内に限定し、さらに神田川を完璧に仕切ることにより戦火の拡大を防ごうとしたのである。後年、江戸大火に関する多くの資料が、益次郎の実家の襖の下張りより発見されている。
7.怪異談「番町皿屋敷」
浮かばれぬ亡霊お菊の皿かぞえ。怪談芝居として有名な『番町皿屋敷』は、岡本綺堂の作。が、この皿屋敷伝説、もとをただせば番町ではなく牛込が舞台であったらしい。享保17年(1732)版の『江戸砂子』には、牛込御門内のある屋敷に起きた事件として次のような記述がある。牛込のある武家屋敷にひとりの娘が仕えていた。この娘があやまって皿をひとつ井戸に落とし、その罪により殺された。
娘の怨念がこの井戸に残ったのか、夜毎に娘の声がひとつより九つまで数え、十をいわずして泣き叫ぶ。声ばかり響き渡り、その影とて見えない。以後、人々は皿屋敷と呼び伝えたという。この牛込御門内の皿屋敷がいつしか番町、あるいは播州(浄瑠璃『播州皿屋敷』など)となる。現在、日本各地に同様の皿屋敷伝説が伝えられている。参考:今野圓輔編著『日本怪談集・幽霊篇』
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