1.神宮外苑と青山練兵場
東に東宮御所、北西に旧皇室庭園(現新宿御苑)をひかえた明治神宮外苑。現在の面積は約15万5千坪(51ha)。かつてはこの広大な敷地が陸軍の練兵場として使用されていた。それまで日比谷にあった練兵場が、この地に移転して青山練兵場と呼ばれるようになったのは明治22年(1889)のこと。同年起草された大日本帝国憲法発布の観兵式が挙行されたのもここである。
明治天皇の崩御により、青山練兵場はその姿を変えていく。大正4年、明治神宮の造営開始にあわせ、神宮外苑としての整備が始まったのである。これは国民の献金による明治天皇記念施設として発案されたもので、10余年の歳月をかけて完成された。今日神宮外苑は、東京オリンピックのメイン会場となった国立競技場をはじめ、神宮球場、株父宮ラグビー場など各種のスポーツ施設で有名だまた青山通りから絵画館前に至る大通りは、都内有数の並木道。並木のイチョウは入口側ほど高く、奥行きを感じさせる工夫が施されている。
2.大学野球のメッカ神宮球場
現在の神宮球場は昭和6年に竣工。外野の塀は今より10メートルばかり遠かった。当時から大学野球の檜舞台であったが、この広い球場でのホームラン記録を持つのは、昭和43年の田淵幸一以来の30年ぶりの快挙を果たした高橋由伸選手(慶大−巨人)である。
しかも、高橋選手が打った23本のうち、最多は徳島出身の川上憲伸投手(明大―中日)からの3本であった。プロ入り後の新人王争いには高橋選手は川上選手にそのタイトルを譲ったが、「最近の六大学の低迷云々」を覆すには十分の二選手の活躍である。
大学野球に欠かせないのが応援歌。「都の西北」は早慶戦が始まって間もない明治40年に誕生、創立25周年記念に制定された早稲田の校歌である。これに対抗して「若き血」が初めて披露されたのは、改装なる前の神宮球場、昭和2年秋の早慶戦であった。慶応は完封で連勝し、苦節3年の雪辱を遂げる。熱狂した慶大生による「若き血」の大合唱が神宮の森に鳴り響いた。作詞作曲は堀内敬三。2週間前に完成した新応援歌の歌唱指導には、普通部(中学)在学中の増永丈夫が起用された。後の歌謡界の大スター、藤山一郎である。
3.四谷寺町の形成
新宿通りから一歩裏手に入ったあたりは、現在20あまりの寺院・神社が点在する四谷寺町。この寺町が形成されたのは、江戸時代のはじめ、寛永年間のこととされている。時の将軍家光は、江戸城最後の大工事として外堀を含む城の西北方の守備固めに着手。内堀周辺にあった社寺を城外の要所へと移転させた。これは寺院の伽藍を非常の際の戦略拠点にするため。四谷の寺町は、四谷見附の防備体制に組み込まれていた。その後1657年の明暦大火を契機に、被害のなかった四谷には、焼失地域から町屋、武家、寺社などが強制的に移転され、江戸の街の一地域へと変貌を遂げていった。「新撰東京名所図会」(明治36〜44年)に「従来四谷は山手両国の称ありて、他区に比すれば山の手にての繁昌地なり」と記されているが、四谷には今も山の手の中の下町といった趣きがある。ことにその裏通りには、大震災以前の道の姿がよく残されているという。
4.伊賀忍者の統領、服部半蔵
新宿区若葉町の西念寺。その名のおこりは出家後の服部半蔵が西念と号したことによる。徳川三勇士の一人として半蔵は「槍の半蔵」とも「鬼半蔵」とも呼ばれ敵に恐れられた。寺には半蔵の墓の他、家康から授けられた半蔵ゆかりの槍が残されている。
半蔵第一の功績は「徳川実記」にも記されている伊賀越えの脱出行である。天正10年(1582)、本能寺の変で信長が倒されたとき、堺にいた家康は弧立無援の窮地に陥った。この時半蔵の護衛のもとに鈴鹿山系を抜けて、三河に逃げ帰ったのである。
当時、鈴鹿山系には伊賀もの・甲賀ものと呼ばれる忍者たちがいた。応仁の乱以来、この地域はどの大名の支配も受けない中立地帯であった。そんな中で周辺の土豪たちは、城塞を築き、武を練り兵を養って戦技を競った。こうして生まれた山岳ゲリラ戦術が、いわゆる忍術である。忍術の極意は絶対の秘密であり、徳川初期には一子相伝さえ禁じられていた。他言するものは直ちに処刑されたという。伊賀越えにおいて家康は、この忍者たちを味方につけた。これを契機に半蔵以下200名の伊賀組が編成されたのである。
参考:山口正之著「忍者の生活」
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