見どころ紹介

(3)外苑散歩(四谷大木戸−四ツ谷駅4.0Km)

●野口英世記念館
 昭和3年5月21日、野口英世博士はアフリカにおいて黄熱病研究に殉じた。その偉業を後世に伝えるため、博士ゆかりの品々の一般公開を目的としてつくられたのがこの記念館である。開館は昭和14年5月21日。建設資金は、生前の関係者や郷土の人々を主体とした野口英世記念会による寄付でまかなわれた。

●聖徳記念絵画館
 明治天皇と昭憲皇太后の遺徳をしのんで国民の寄付金によって建築された。設計は一般公募。館内には明治天皇と昭憲皇太后の生涯、業績を描いた絵画80点が展示されている。

●滝沢馬琴旧居跡
 曲亭馬琴のペンネームでも知られる江戸時代の戯作者滝沢馬琴が、晩年の20年余りを過ごしたところ。60歳の馬琴がこの地に居を定めたのは、天保6年(1835)のことだったといわれる。足かけ26年にわたって執筆されたという有名な「南総里見八犬伝」の最後の6年間の分は、ここで書かれている。

●一行院
 一行院は俗に千日寺とも呼ばれる。開祖とされる下総古河藩の家臣来誉故念が、江戸において初めての千日供養をつとめたからで、近くの坂は千日坂、周辺一帯は千日谷と呼ばれる。寺には鎌倉時代から室町時代にわたる数基の板碑が伝わる。また昭和30年代終わりに、境内の発掘が行なわれ、江戸時代の人骨や古銭・刀・土人形・化粧品など多くの副葬品が出土した。

●須賀神社
 寛永11年(1634)四谷から移転された。牛頭天王に稲荷社を合祀する四谷の鎮守である。社殿の天井には、三十六歌仙の絵が掲げられている。この社から東福院と愛染院の間を上っていく坂が須賀坂で、天王坂、東福院坂とも呼ばれる。

●四谷寺町
 このあたりの寺院には寛永11、12年(1634、35)頃、麹町方面から移転してきたものが多い。愛染院、西念寺、宗福寺、長善寺(別名笹寺)など現在でも20以上にのぼる寺社が集まっている。

●三銭学校跡
 明治24年(1891)に廃校となつた全勝寺の共立友信学校を前身とする。勉学に集まった子供たちは40〜50人で、その1人1人から1日3銭ずつの寄付を集めていたのでこの名がついた。
およそ1000人の有志から毎月3銭の寄付を仰ぎ、運営されていたのでこの名がついた。

三銭学校に関わられていた方のご親族からご指摘いただき、文章を一部訂正しました。
 R3.5.26さんぽみち総合研究所梶@記

●迎賓館
 明治42年(1909)、大正天皇が皇太子の頃にその宮殿(東宮御所)として建てられた。フランスのヴェルサイユ宮殿を範としたと伝えられるが、外観は装飾性の強いネオバロック。内部は、ロココ様式風に彩られている。今日では、外国の大統領や首相などの賓客に対して、宿泊その他の接遇を行う、国の唯一の施設になっている。総務庁による7〜8月の迎賓館の参観受付は5月末の締切。

●四谷見附跡・四谷見附橋・新四谷見附橋
 外堀の内側に四谷御門か設けられ見附番所が置かれたのは寛永16年(1639)。半蔵門から新宿へ抜ける甲州街道は、江戸城防衛のため、この見附あたりでコの字形になっていた。これを直進させようとしてつくられたのが四谷見附橋である。大正2年(1913)完成の都内最古の陸橋。更に大正14年(1925)、新四谷見附橋が架設された。この道が本来の御門への入口で、橋の側には石垣が残り、四谷御門の名残りをみせている。しかし、70年の歳月と交通量の増加のため四谷見附橋の架け替えが決定、平成3年に完成した新しい橋は背の高い橋灯・花崗岩を使った橋詰の装飾など、元のデザインが継承されている。

●島崎藤村居住地跡
 明治38年(1905)、文豪島崎藤村が上京後、家族とともに過ごしたところである。彼の出世作「破戒」が執筆された記念の地。現在は、島崎藤村旧居跡の碑がたてられている。

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