1.鉄道開通と大森貝塚
大森駅西側に連なる崖地はここが武蔵野台地の端にあたることを示している。屋上の丘陵は九十九谷と呼ばれ、古代は朝廷に献上する馬を養う放牧場であったという。馬込の地名もこれに由来する。
その崖下に新橋一横浜間を結ぶ鉄道が開通したのは明治5年(1872)のこと。大森駅の開業は明治9年である。モース博士は翌10年、貝類研究のためにアメリカから横浜港に上陸した。東京に向かうべく車中の人となった博士は、大森駅を過ぎてまもなく、車窓から左手の崖に白い貝殻の堆積を発見した。博士はさっそく鉄道局に発掘許可を申請した。「数ヶ月間誰かが私より先にそこへ行きはしないかということを絶えず恐れながら、この貝墟を訪れる機会を待っていた」(『日本その日その日』)。これが日本考古学の端緒となった大森貝塚の発見である。博士が主に発掘を行ったのは現在遺跡庭園となっている大井の地であったが、当時は下車する駅が大森しかなく、この名がついたといわれる。
2.馬込文士村
尾崎士郎・宇野千代の夫妻が馬込に越してきたのは大正12年(1923)。以降、大正15年には広津和郎、萩原朔太郎、昭和2年(1927)に北原白秋、同3年が三好達治、川端康成、室生犀星と文士が集い、この牧歌的な田園はいずれ劣らぬ文壇個性派たちの交流でにわかに賑わった。 その中核となったのは尾崎・宇野の夫妻である。親分肌の尾崎を頼って、二人の家には来客が引きも切らず、仲間の噂話に花が咲く。とうとう“馬込放送局”なる異名までとったが、もっとも最大の噂のタネは当の宇野だった。宇野の美貌と才気は文士たちの憧れの的。超然派の川端さえ、文士村の狂騒に乗せられてか、ついうかうかと宇野と出歩き噂にのぼってしまう。朔太郎にいたっては宇野に向かって突然、「何千万年か後に、またこうしてあなたと一緒に、この馬込の田圃の中とそっくり同じところをいまとそっくり同じようにして散歩することが、きっとある」などとロマンチックな告白をするのだった。
時は1920年代。西洋式風俗が大流行。文士たちは仲間の家に集まっては、当時流行のダンス・パーティに熱中した。犀星は日記にこう記している。「萩原の家に行き奥さんからダンスを習う。生まれて初めてなり、ダンスをするごとに二階すこし動く、辞退してもダンスをせねばならず、奥さんに乞いてビールを飲み、元気をつける」。モボ・モガの風俗も文士たちは盛んに取り入れた。真っ先に断髪したのは宇野である。影響は萩原・川端両夫人に及び、三断髪美人が手をつないで闊歩する姿は道行く人を唖然とさせた。
昭和5年、尾崎・宇野夫妻は離婚。文士たちも次第に居を移し、20年代が過ぎ去るとともに文士村の最盛期も過ぎた。後年、尾崎は文士村をモデルに『空想部落』を発表し、青春を回想した。「誇張して言えば彼らの生活は月光の中に描きだされた一枚の影絵であった」。文士村のあらましは近藤富枝著『馬込文学地図』に詳しい。生真面目で深刻でのどかな、文壇青春図が描かれている。
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