1.高尾山
関東三大霊場の一つに数えられる高尾山の歴史は、山上に立つ薬王院とは切りはなせない。その開山は奈良時代の天平16年(744)。高僧行基によると伝えられる。その後、修験道の道場となったのは室町時代の永和2年(1376)。僧俊源が入山して真言密教を伝えたのが始まりである。以後高尾山は霊場として栄えたことから、地元の伝承で俊源は「高尾のお山の中興開山さま」と呼ばれ、讃えられている。
高尾の山霊はまた、武神とも崇められていた。戦国乱世の当時、高尾山はその北方の豪族大石氏と甲斐の武田氏の対立の境界線に当り、この山地を舞台に両軍の戦闘が繰り広げられた。大石氏に養子に入った北条氏照がその居城である滝山城を武田方に包囲攻撃され、まさに落城寸前という危機一髪の時である。氏照が高尾の権現にむかい起死回生の祈りを送ったところ、願いは届き、氏照は危機を脱したというのである。
その後、江戸時代に入ると幕府は高尾を直轄の御林山とした。戦略上また信仰上からも特別の保護を与えたのである。当時の高尾詣では日本橋から3日程の行程であった。明治維新後は皇室の御料林となり、さらに戦後は国有林として保護され、自然の「宝庫」高尾は今も残されている。現在では明治の森高尾国定公園に指定され、また東海自然歩道の起点ともなっている。ブナ・カエデを中心とする北方系の温帯林と、カシ・シイを中心とする南方系の暖帯林が交差する高尾山の植物は千数百種類にのぼるといわれる。また昆虫の種類も数千種に達すると推定され、京都貴船山、大阪箕面山と並んで日本の三大「昆虫宝庫」の一つにあげられるほどだ。このように豊かな自然の中、地元では「野鳥の声を聞く会」「山野草に親しむ会」「カジカガエルの声を聞く会」等々、高尾山ならではの様々な自然と触れあう催しが行われている。
2.高尾の声を聞く
高尾山では、その豊かな自然を味わい親しむための様々な催しが行われており、それぞれに多くの参加者を集めている。
「野鳥の声を聞く会」は、早朝、高尾山に生息する約100種類の野鳥のさえずりに耳を頃ける催し。前夜、高尾山薬王院で、専門家の講演や、車人形の観劇等も行なわれる。「カジカガエルの声を聞く会」は、高尾山麓の案内川(あんないがわ)畔で開かれ講師の解説もある。カジカガエルの鳴声は、虫の声とも聞きまがう風流な美声で、万葉の昔から愛されてきた。「観月とカンタンの声を聞く会」の会場は、「野鳥」と同じ薬王院。カンタンは、「幻の虫」「鳴く虫の王」ともいわれるコオロギ科の虫。その幽幻な鳴き声を聞きながら仲秋の名月を鑑賞する。以上はいずれも、八王子観光協会の主催によるもの。また、山頂にある高尾ビジターセンターでは、解説員やボランティアによる自然教室、講座などを開催している。
3.後北条氏四代
長氏(早雲)―氏綱―氏康―氏政
└氏照
八王子城の城主北条氏照は、後北条家の四代目氏政の弟。兄弟は、後北条家の祖早雲のひ孫に当たる。早雲(伊勢長氏)は、駿河国興国寺城の一介の城主から身をおこし、小田原城を奪取して相模国に進出、88歳で世を去った。「一代の梟雄(きょうゆう=勇猛果敢、時に残忍な人)」とうたわれる風雲児であった。
その子氏綱が小田原城を拠点に後北条家の覇権確立に努めた後、三代目氏康の代で後北条家は絶頂をむかえる。その直接の契機といわれるのが「川越の夜討ち」と呼ばれる武州川越城での戦闘であった。この戦で扇谷(おうぎがやつ)上杉氏は滅び、上杉方武士達は氏康に屈服したのである。八王子の滝山城主大石定久もその一人だった。
天文15年(1546)氏康は7歳の次男氏照を大石氏の養子として滝山城に送り込み、領国支配の安定をはかったのである。滝山城、その後に移った八王子城は、小田原に本拠を構える後北条家の関東制覇のための拠点であった。
4.八王子城落城―後北条氏の終焉
永禄12年(1569)は北条氏照にとって、散々な年であった。大石氏以来の宿敵である隣国甲斐の武田に2度にわたって苦杯をなめさせられたのである。廿里(とどり)峠では武田方の待伏せにひっかかり、ついで居城である滝山城は信玄、勝頼親子の総攻撃であわや落城という惨状。この事件が八王子城築城のきっかけと見られている。ただし、八王子城が正確にいつ造られ、氏照がいつ移ったのかは諸説あって判明はしていない。
天正18年(1590)後北条氏の本拠地小田原城が天下統一の野望に燃える豊臣秀吉の大軍に攻め寄せられ、氏照はその主力4千の兵と共に小田原に駆けつける。八王子城に残されたのは、わずか数百の兵、大部分は武者の姿はしていてもその実、農民、商人、職人、僧侶までが加わった即席の民兵たちであった。主君の留守を豊臣方の上杉景勝、前田利家の数万の軍勢に攻め込まれた八王子城は、たった一日で壊滅した。何しろ相手は鉄砲ばかりか口径5cmの大砲をも備えた、人数にして10倍近くもある強大な兵力だったのである。惨憺たる負け戦ではあったが、弱少の北条方も勇敢に戦い、敵の精鋭にかなりの損害を与えたという。
同年、小田原城も落城。氏照は兄氏政と共に自刃。後北条氏は滅びた。現在、八王子城跡の城山には、空堀や土塁、石垣の一部が残存し、わずかに城の面影をとどめている。地中から出土した八王子城の遺物(陶磁器、焼米、石臼、物差等の生活道具)の一部は、八王子市郷土資料館に展示されている。
5.芸術のあるまち
八王子を文化の薫り高い街とするための努力が結実したのが、2003年秋にオープン予定の美術館と市内に数多く置かれた彫刻作品の数々である。20年以上も前から街自体を一個の美術館にしてしまおうという計画の一つ「彫刻のまちづくり」によって、市内には100基以上もの芸術作品が、商店街や駅前広場、公園あるいは公共施設等に置かれ、まさに日常の中で間近に芸術に接することができる。彫刻家北村西望の作品を始め、「日彫展」での最優秀作品に贈られてきた「西望賞」受賞作品は、西望の作「浦島一長寿の舞」と共に、片倉城跡公園に全て置かれている。
2003年10月に開館される市立美術館では、特別展の開催と市が所有する美術作品の展示を中心に、とりわけ市になじみの深い小島善太郎、鈴木信太郎両氏の作品を、二人の作品の制作経緯などについても解説し、より深い理解をもってもらうなど、充実した内容としていく予定であり、八王子の新たな魅力となる。
6.多摩御陵
昭和64年1月7日に崩御された昭和天皇は、平成元年2月24日の陵所の儀により、武蔵陵墓地に埋葬された。この墓地が整備されたのは、中部地方以東におかれた最初の天皇陵である多摩御俊の開設(昭和2年2月8日)に際してである。大正天皇崩御の翌日、昭和元年12月26日の「時事新報」は「御陵墓定まる」と報じ、御陵を「……前に浅川清流を控え遠く帝都より神奈川方面を望み、眺望絶佳で直前より西にかけては自然木の大森林を控えた荘厳の気充てる地点で‥‥‥」と紹介している。
御陵の形式は、上円下方墳。コンクリートで積み固められたさざれ石と小松石により形づくられている。また東側には、貞明皇后陵(昭和26年崩御)が並んでいる。参道のケヤキ並木と甲州街道沿い(八王子市追分から高尾駅まで)の銀杏並木は、御陵開設時に整備されたもの。参道突きあたりの陵南会館はかつての東浅川宮廷駅。皇室参拝用に設けられた駅舎が、現在では八王子市の文化施設として使用されている。
7.船田遺跡と椚田遺跡
八王子の長房団地内には元国指定の史跡にもなっていた船田遺跡がある。団地開発造成の事前調査で古墳一基を含む340軒の大規模な住居跡が発掘されている。
うち199軒までが鬼高期(おにだかき)の住居であるという。鬼高期とは、6世紀頃、住居の形態に大きな変容が現
れた時期を呼んでいる。鬼高住居は、竪穴の掘立柱づくりだが、正方形の一辺が5〜7m、また10mといった大型のもので、カマドと貯蔵穴が備わっている。このカマドの出現が鬼高期の大きな特徴となっている。つまりそれまでは調理用に不可欠だった炉にかわって、カマドが使われるようになったのだ。したがって土器も、カマドにかける長甕(ながかめ)、甑(こしき=蒸し器)が大いに活用されたようだ。これら土器の形や大きさにははっきりした規格性が認められる。
また、真覚寺近くの椚田丘陵でも5ヶ所の遺跡が確認されている。椚田遺跡は縄文早期から平安時代までのもので、大小様々の方形周溝墓、住居址(弥生末期〜古墳初期)なども発掘されている。その他、米や栗、稗など食料、鉄器、土器、装飾品など数多い遺物も出土している。
この両遺跡からの出土品は、八王子市郷土資料館と東京都埋蔵文化財センターに保管されており、郷土資料館ではその一部が常設展示されている。
8.東京の民俗芸能
古来、地域に根ざした祭礼と芸能とは一心同体、祭礼が芸能か、芸能が祭礼か判然と分かちがたいものがある。従って民俗芸能の多くは各地に残る祭礼と共に今日に伝えられてきた。
この東京においても同じである。三社祭のびんざさら神事(田楽舞)。多くの祭を彩る祭囃子の代表格である神田囃子と、葛飾・江戸川に伝承される葛西囃子。また、佃島の盆踊り。或いは、天下泰平・国土安隠を祈願する式三番の舞(西多摩郡檜原村)。小河内神社の鹿島踊。西多摩の春日神社祭で奉納される鳳凰の舞は悪疫退散の祈祷。その他、消防出初式などで演唱される鳶木遣り(とびきやり)から木場の角乗り、深川の力持ちといった一種の曲芸に到るまで、多種多様の民俗芸能が祭礼と共に伝えられている。また伊豆の島々にも八丈島の樫立踊や新島の獅子木遣りをはじめとする珍しい芸能が伝承されている。
これらのうち、鹿島踊は国の重要無形民俗文化財、その他はいずれも都の無形民俗文化財に指定されている。それ以外にも弓を射って悪魔退散を祈願するおびしや(お歩射)祭や、歌と物真似で稲作の全過程を演じ五穀豊穣を祈る田遊びなど、今に残る民俗芸能は数多い。中でももっとも盛んに行われているのがいわゆる「神楽」である。
東京の神楽
神楽の起源は、祭礼において巫女に託宣を乞う儀式であったといわれている。それがやがて祈祷の舞となり、さらに神話や伝承を導入した一種の能の形態を持つものも現れ、関東では里神楽と呼ばれるようになった。
里神楽は三社権現をはじめ多くの神社で行われており、その演目は天の岩戸、天之浮橋から紅葉狩、土蜘蛛、さらには桃太郎、舌切雀、浦島太郎まで盛り沢山だ。また、東京で里神楽と共に盛んな太々神楽(だいだいかぐら)は、里神楽を簡略化したもので、神田明神、品川神社、根津権現などの祭礼で演じられている。
八王子車人形
八王子車人形は説経節の語りに乗って演じられる人形芝居である。明治20年頃は多摩を中心に地域的な広がりをみせ、東京の芝居小屋や寄席、あるいは縁日などでも盛んに興行されていた。現在八王子では恩方の西川古柳一座がその伝統を伝えている。
車人形は文楽に似ているが、いくつかの違いがある。文楽は一体の人形を三人の人形遣いで操るが、車人形は一人の人形遣いですべての操作が行える。そこが車人形の独創的な点である。車人形の操者は黒衣に裁着袴のいでたちで、まず轆轤(ろくろ)仕掛けの箱車に腰をおろす。そして両手両足で人形のあらゆる動作を演じつつ、舞台上を箱車で自由に移動する。
この車人形が生まれたのは江戸も幕末のことで、考案したのは永岡柳吉(西川古柳)という人物である。永岡柳吉は埼玉県入間郡加治村の人、文政7年(1824)に生まれ、やがて多摩の酒屋に小僧に出された。が、柳吉は人形芝居が大好きで、遂には大阪へ出奔して文楽の道に入った。大阪で修業をつんで人形遣いとなり、江戸に舞い戻ったが、江戸には一つの困難が待ち受けていた。文楽の人形には三人の人形遣いが必要だが、柳吉には仲間が見つからなかったのである。柳吉は碁盤に腰掛けて考えた。ならば、一人でやるしかないではないかと。碁盤に座って人形の物真似をしているうちに卒然とひらめいたのが、尻の下の碁盤を車輪で動かすことであった。だが、柳吉がこの着想をものにしてから、自在に動ける箱車を完成させるまでにはさらに3年余りの苦心の日々が必要だったという。こうして車人形の家元西川古柳が誕生したのだった。
伝統芸能文楽から派生した車人形は、現在では生まれ故郷多摩の伝統として継承され続けている。
小河内村の民俗芸能
昭和32年の小河内ダム完成でその水底に没した旧小河内村域には、中世近世以来の民俗芸能が数多く伝えられていた。鹿島踊、獅子舞、神楽、萬作踊、地狂言、人形芝居、影絵等々。これらの民俗芸能は村民の四散と共に消滅を余儀なくされたものの、鹿島踊と人形芝居、獅子舞、神楽は付近の市町村に残った旧村民たちの手で復活を遂げている。鹿島踊は9月15日、奥多摩小河内神社の祭礼に天冠、振袖姿で女装した6人の青年が踊る。名称の由来は最初に舞う「三番叟(さんばそう)」の文句「鹿島大明神様は 遂にむくりん叶はずし 鹿島踊をいざ踊る」からきているという。また人形芝居は八王子から伝えられた車人形で旧小河内村川野の人々にって継承されたものである。
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