1.中山道と板橋宿
「郷土(馬籠宿)を出立してから十一日目に三人は板橋の宿を望んだ。戸田川の舟渡しを越して行くと、木曾街道もその終点で尽きている。そこまで辿りつくと江戸も近かった。十二日日の朝早く三人は板橋を離れた。江戸の中心地まで二里と聞いただけでも、三人が踏みしめて行く草鞋の先は軽かった。道中記の頼りになるのも板橋までで、巣鴨の立場から先は江戸の絵図にでもよる外ない」(島崎藤村『夜明け前』)。
五街道の一つ、中山道(現在の旧中山道)が整備されたのは慶長7年(1602)。その道筋は古くから東山道と呼ばれ、西国と東国を 結ぶ要路であった。また『夜明け前』の舞台ともなった木曾山中を通過することから、木曾街道、木曾路とも称された。板橋宿は日本橋から二里半(約10km)に位置する中山道第一の宿。街道沿いの長さは約2kmに及び、南から平尾宿・中宿・上宿の三宿に分かれていた。中宿と上宿の間には石神井川が流れ、地名の由来といわれる板状の橋、板橋が架かっていた。
天保14年(1843)の記録によれば板橋宿の人口は約2500人、旅籠の数は大小54軒。中心地の中宿には高級旅籠や料理屋が軒を連ね、中でも遍照寺の隣にあった旅籠「伊勢孫」は200人もの旅客を収容したという。「伊勢孫」は板橋名産の大根の種や浅草海苔を地方に発送するなど、現在の宅配便ターミナルのような機能も果たしていた。
参勤交代で中山道を利用する大名は、加賀前田家をはじめ30家と多く、これら武家や公家・高僧の休泊には中宿の名主飯田家の本陣があてられた。もっとも大名行列のような公務の場合は、次の宿に継ぎ送るための人馬を大量に用立てねばならず、地元の住民はその負担に苦しんだという。また中山道は大河を渡らず、川の氾監も少
ないため、女性の道中に好まれた。14代将軍家茂のもとに嫁いだ皇女和宮が、文久元年(1861)の江戸入りに際して板橋宿を通ったのもこのため。和宮の行列は延々数十kmという空前の規模のもので、宿場は大混乱に陥ったという。
明治に入ってからも板橋宿は信州・北陸方面の交通の要衝にあたり、東京の北の玄関口として江戸時代以上の活況を呈していた。ところが明治14年(1881)、日本鉄道会社が中山道を経由して上野と熊谷を結ぶ鉄道敷設を計画すると、宿場の人々は旅客が汽車に奪われてはならじと大反対。結果、路線は王子・赤羽経由に変更されたが(現在の東北本線)、これが皮肉にも宿場の衰退をもたらした。板橋駅(板橋停車場)が開業するのは品川−赤羽を結ぶ品川線が開通した明治18年のことである。
現在、旧中山道沿いの街並は板橋区によってかつての宿場町をイメージに整備されている。夕暮れ時、買物客でごったがえす商店街の賑わいは、往事の旅客たちの喧騒をほうふつとさせる。
2.女子高等教育の草分け
現在の東京大学豊島学寮の敷地には、かつて女子高等教育の草分けである明治女学校があった。キリスト教信者の木村熊二・鐙子夫妻らによって麹町に創立されたのは明治18年(1885)。教師陣に島崎藤村、北村透谷など若き俊英を招き、一時は生徒数三百という全盛期を迎えたが、火災によって校舎を失い、明治30年、巣鴨庚申塚に移転した。麹町時代には自由学園の創始者羽仁もと子、新宿中村屋の創始者相馬黒光、庚申塚時代には作家の野上弥生子らが学んだ。
教育方針は「暗記より読むこと」「読むことより考えること」。学内は自由で清新な気風に満ちていたというが、その一方で、透谷と教え子の恋愛、透谷の自殺(明治27年)といった事件は女生徒たちに強いショックを与えた。黒光は回想記に「先生はみな二十代の若さで、清純で、厳粛に人生を凝視するというしっかリした人物が揃うているのでしたから」「これは単なる学校ではなく、青春道場」であり、「人生の男女共学の観」があったと記している。また校長の巌本善治は女生徒たちにとってカリスマ的存在だったらしく、その風貌は「凡そ男性的なあらゆる美」を備え、彼の講話の時間には「この学校に来たことの幸福を今更のように強く感じて、うつつの如く足を運ぶという風でした」(黒光)という。
移転後の校舎は「広いクヌギ林の中の二階建のコッテージ風の洋館」(野上)で、当時日本唯一のスコットランド風建築だった。この頃の学科は政治、社会、経済、哲学、国際公法、審美、憲法と多岐に渡り、また道場では剣道、薙刀、柔道、校庭ではテニス、クリケットが盛んだったという。明治女学校はその後、移転費用が財政を圧迫したほか、生徒数の減少で経営難に陥り、明治41年廃校を余儀なくされた。
参考:藤田美実著「明治女学校の世界」他
3.千川上水の変遷
明暦3年(1657)の大火を契機に江戸市街の拡張が始まると、まず問題になったのは飲料水の確保だった。従来の神田・玉川の二つの上水ではとてもまかないきれない。そこで開設されたのが、青山、亀有、三田、千川の4上水だった。千川上水は元禄9年(1696)、玉川上水を保谷村(保谷市新町)で分水したもの。巣鴨村まで延々22kmの堀割を開削し、巣鴨の溜池からは木管を通して小石川、本郷、上野、浅草といった地域に給水した。工事を請け負った徳兵衛・太兵衛の両名はその功績により「千川」の姓を賜り、両家は代々上水の管理役を勤めた。ところで、時の老中柳沢吉保は元禄15年に広大な六義園を築き、千川上水を引き入れているが、そもそも上水開設の目的はこの六義園への分水にあったのではないかという説もある。
かくして江戸市中を潤した千川、青山、三田、亀有の4上水は、享保7年(1722)に突如として廃止された。廃止を建議したのは幕府の儒官であった室鳩巣。その趣旨は、相次ぐ江戸の大火は地中を走る水に原因があるというまことに奇怪なものであった。地中の水が地の気を抑え、風を呼び、火災を大きくするというのである。今日では理解に苦しむこの説も防火対策に苦慮していた時の幕府には説得力があったらしい。提案はさっそく実行に移されたが、その背景には井戸水の普及によって飲料水が得やすくなったこと、上水の維持管理が困難であったことなどの事情も考えられるという。以後、4上水は千川上水が一時再開されたのを除いて、もっぱら農業用水として用い
られた。用水の管理には引続き千川両家があたった。
明治に入って、千川用水は王子に設立された抄紙会社(後の王子製紙)の工業用水(水車の動力)などにも用いられていたが、明治13年(1880)、岩崎弥太郎らが設立した千川水道会社によって、再び“上水”として甦った。給水した地域は小石川区、神田区、本郷区、下谷区、浅草区と江戸時代とほぼ変わらない。明治22年には長
年続いた千川両家の管理権も東京府に移った。水道会社は明治41年に解散されたが、上水の水はその後も昭和45年まで板橋浄水場を経由して、飲料水として用いられた。現在の千川上水公園は巣鴨の溜池の跡地。旧中山道と明治通りの交差点を堀割と呼ぶのも、その名残りである。また、明治15年建立の千川上水分配堰の碑は、この地点で上水が滝野川方面と六義園方面に分流されていたことを示している。現在、上水は都心部ではほとんど暗渠となっているが、かつて流路であった千川通りと青梅街道の交差部(練馬区)から西は、平成元年より開渠となり、水辺の環境整備が行われている。
4.長谷川良信とマハヤナ学園
大正7年(1918)、浄土宗の青年僧長谷川良信は出身校である宗教大学(現大正大学)の社会事業研究室に迎えられた。従来から生活困窮者などの生活向上を図るセツルメント活動に関心の深かった良信は、この研究室を拠点に近隣の通称“二百軒長屋”で救済活動に乗り出した。ちなみにセツルメントなる外来語に“隣保事業”という訳語を当てはめたのも長谷川である。
長谷川がまず着手したのは夜学会。当時の二百軒長屋には学校へも通えずに労働に従事する子供たちが数多かった。彼は単身長屋に移住し、毎晩10数名の子供たちに学習を指導する一方、住民たちの身の上相談にも応じた。翌年、長谷川はこうした活動をより組織的に進めるため、マハヤナ学園を創設、託児所や診療所を含む総合的な社会事業へと発展させた。マハヤナとは梵語で大衆を意味するマハーヤーナの略。この時長谷川は28歳。後に彼は当時の情熱をこう回想している。「立って貧民を救え!貧児を救え!貧民窟に入って一生を奉仕に捧ぐべきだ!そこに仏教がある。そこに念仏が叫び出される」。
長谷川は一宗教家にとどまらず、優れた経営の手腕を発揮し、長屋街の鉄筋改築を斡旋するため奔走するほか、大乗女子学院(現淑徳巣鴨高校)、マハヤナ中央病院(現巣鴨病院)、養護施設なでしこ園の創設など、その活動は多岐に渡った。昭和28年には63歳にして単身ブラジルに向かい、布教活動に尽力した。昭和41年、76歳で死去。現在マハヤナ学園は創立の地、マハヤナ保育園を拠点に社会福祉法人として活動を継続している。
参考:マハヤナ学園70年史編集委員会 「マハヤナ学園70年の歩み」
5.新中山道誕生
江戸時代、中山道をはじめとする街道の修繕は沿道の村々の義務とされていた。諸大名や幕府の役人が頻繁に往来するため、街道の整備や修理はよくが行われていたが、明治に入ると政府は鉄道優先策をとったことから、道路は荒れるにまかされた。中山道も明治13、4年頃には大変な悪路となり、宿場内でも丸竹のすのこや畳を敷いて通行するありさまだったという。明治16年(1883)の改修工事で砂利を敷き詰め、いったんは面目を一新したが、それでも雨の日には道がぬかるみ、風の日には土埃が舞う、牛車が通れば砂利がゴトゴトやかましいという状態であった。
大正12年(1923)の関東大震災以降、郊外への移住者が相次ぎ、板橋地域の人口が増加してくると、中山道にも乗合バスが走るようになった。すでに中山道は大正8年から「一級国道9号線」に指定されていたが、交通量の増大でまず問題となったのは道幅の狭さである。中山道は昭和2年から足掛け6年の大改修工事によって道幅25mの新道に生まれ変わった。現在、巣鴨から板橋にかけて旧通が新道に沿う形で残されているのは、拡幅にあたって人家が密集している旧宿場町を避けたためである。新中山道には昭和19年から市電(後に都電)が乗り入れたが、交通量のさらなる増加によって昭和41年に姿を消した。
6.板橋の水車と工業
江戸時代から昭和初期にかけて、板橋には石神井川や千川上水などの水力を利用した水車が点在していた。『武江年表』には享和元年(1801)に「板橋宿板橋水車」から奇魚(サンショウウオ)が発見されたことが記録されている。また文政年間(1818〜1829)の『新編武蔵風土記稿』には、重吉なる者の水車が紹介され、「車輪の大きさ円径1丈6尺5寸、左右に設くる杵53本、挽臼は一組なり。水車は関東第一にして、これに勝れるものなし」と記されている。これらの水車は米つき、麦つき、粉ひき、割り麦など、もっぱら周辺の農民によって利用されていたが、明治に入ると鉛筆の芯にする黒鉛をつぶしたり、銅の圧延をするなど工業用にも併用されるようになり、板橋の工業のもととなった。
ところで板橋の工業として特筆されるべきは、戦前の軍需産業であった。明治新政府は、石神井川の両側にまたがる広大な加賀藩の下屋敷地を没収し、明治6年(1873)に水車を利用した日本初の火薬製造に着手したのである。その中心になったのは、旧幕臣の沢太郎左衛門。彼は幕末期にオランダで火薬の製法を習得し、ベルギーから黒色火薬製造機「硝石圧磨機」を購入したが、維新後捕らえられ、特赦によって新政府に登用された。石神井川の水力はこの圧磨機を縦軸水車によって回転させた。明治9年には同地に板橋火薬製造所が完成、以後、王子、十条、滝野川などに次々と工場が増設され、水車は黒色火薬の製造が廃止される明治39年まで回転し続けた。
板橋の工場は昭和15年には東京第二陸軍造兵廠板橋製造所(通称二造)と改称され(一造は王子工場)、最盛期には工員7000人を有する一大軍需工場となった。敗戦後、造兵廠は解散され、工員たちは二百円程度の退職金に米俵一俵を担いで街に出ていったという。こうした工員たちはその後、廠内で覚えた技術を近隣の町工場で活かし、光学機器、精密機械、化学製品の製造など、板橋の工業発展に貢献したといわれる。なお現在、沢太郎左衛門が購入した圧磨機は、造兵廠跡地に保存されている。
7.買い出し電車
東上線は大正3年(1914)、東上鉄道によって開通された。当初の区間は池袋−田面沢間34km(田面沢は現在の川越市と霞ヶ関の間にあった駅で大正5年廃止)。東上の名は東京と上州を結ぶことから付けられた。開業時の板橋区内の駅は下板橋と成増の二つ、やや遅れて上板橋駅が開業した。大正9年に東上鉄道は東武鉄道に合併され、大正14年には秩父鉄道と連絡した。東京郊外の人口増加によって、昭和7年に板橋区が誕生し、東京市内に編入されたが、区内の沿線には依然としてローカルな雰囲気が色濃かったという。
そんなのどかな郊外電車が俄然注目を集めたのは、食糧事情の悪化した戦時中。芋の名産地、川越方面に向かうため、人々は東上線に殺到した。敗戦を迎えると買い出しの範囲はいよいよ広がり、遠く寄居方面から炭を運び込む乗客も多かった。これらはいずれも闇物資であったため、車内では巡査の取り締まりがどこで行われているか、盛んに情報が交換された。食料を求める乗客は屋根の上まであふれだし、沿線の人々はそんな電車を「イモ電車」、真っ黒な炭を積み上げて走る電車を「カラス電車」と呼んでいたという。
8.近藤勇と土方歳三
新選組局長近藤勇が処刑されたのは板橋の平尾宿、現在の板橋駅東口付近であった。刑場近くには、明治8年(1875)、盟友であった副長土方歳三と共に墓が建てられた。なお、近藤の墓は三鷹市大沢の龍源寺にもある。
近藤勇と土方歳三はともに多摩の農民出身。多摩地方は古くから坂東武者の遺風を受け継ぐ土地柄で、農民たちは欧米列強がアジアを侵略しつつある当時の国際情勢にもよく通じ、幕府の開国政策に不満を覚えていた。彼らは“真の武士は自分たちである”との気概から農民の身分でありながら剣術の稽古に余念なく、近藤たちは多摩の各地を巡っては指導に当たっていたという。彼らが用いた天然理心流は農民たちの聞から起こった実用に徹した必殺剣であった。
こうした多摩農民の意識を背景にした近藤の志は公武合体を実現し、外敵に当たることにあったといわれるが、新選組の活動は洛中の警備に終始し、暗殺部隊として倒幕派の恨みを買う結果となった。実際の近藤は厳格な容貌に似合わず人なつっこく、几帳面で面倒見がよかったという。一方の土方はなかなかのダンディーで抜け目なく冷徹な一面があったが、近藤を兄のように慕っていたという。
新選組は鳥羽伏見、甲州勝沼などで敗退を重ね、近藤は下総流山の地で官軍に捕らえられた。脱出した土方は勝海舟に近藤の助命を懇願したというが果たせず、近藤は慶応4年(1868)、35歳で斬首された。土方は北海道へ転戦し、明治2年(1869)、函館五稜郭の戦いで「一死を免れるとも、何の面目あって地下の近藤にまみえようぞ」の言葉を残し、戦死した。近藤と同じ35歳であった。なお、近藤たちの教えを受けた多摩の農民たちは、その後の自由民権運動で中心的役割を果たしたという。
参考:NHK編『歴史発見』他
9.元祖亀の子束子
「たわし」という言葉は江戸時代からあった。シュロの皮や荒縄を束ねたものを「たわし」と総称し、洗い物に用いていたらしい。亀の子束子の生みの親、西尾正左衛門は滝野川の生まれ。近隣に自生するシュロを用いて靴拭きマットを考案した彼は、ある日、妻が洗い物にマットの切れ端を使っているのを見て、たちまちひらめいた。出来上がった新型たわしは亀の甲羅にそっくり。“亀は万年”で縁起もいい。当時の漢字ブームにあやかって漢学者から「束子」の字をあててもらい、亀の子束子の商品名が決まった。時に明治40年(1907)、正左衛門は22歳であった。その後、原材料をシュロから水に強いパームに変更し、特許を出願。担当官も「これは売れる」と直感したという。予想通り亀の子束子は大ヒット。模倣商品も続出したが、正左衛門は今日も用いられる亀のマークと独特のロゴの広告宣伝で対抗し、昭和6年にはハワイ、アメリカ、南米諸国にまで販路を拡大した。
亀の子束子の人気はその後も衰えず、近年では健康用品としても注目される超ロング・セラー。製造・販売元である滝野川の西尾商店は現在四代目である。
参考:TBS編 「餅屋の論理」他
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