●巣鴨地蔵通り商店街
とげぬき地蔵高岩寺がこの地に移ってきたのは明治24年(1891)。以来中山道の道筋は参詣客で賑わい始め、門前町が生まれた。現在も縁日(毎月四の日)の人出は大変なもの。“おばあちゃんの原宿”の異名通り、参詣がてらの買い物客にはお年寄りの姿が目立ち、参道沿いにはメリヤスの肌着、モンペ、草履、豆餅、塩大福、せんべい等々の昔ながらの商品が並んでいる。
●滝野川の種屋
旧中山道沿いに現在も残る種屋は、江戸時代から道中の旅人に野菜の種子を販売し、「種子は滝野川」と称されるほど有名だった。大根、ゴボウ、ニンジンは品質の良いものが収穫されるため評判が高く、中でもニンジンは滝野川ニンジンと呼ばれ、もてはやされた。
●妙行寺
「四谷怪談」のお岩さんの墓で知られる。明治42年(1909)に四谷から移転。日蓮宗。この寺の過去帳によれば、お岩の没年は寛永13年(1636)、夫伊右衛門はその二年後に死亡しており、二人の実在が確かめられる。今日でも『四谷怪談』上演の際には芸能関係者がお詣りに訪れる。
●西方寺
大正15年(1926)に浅草から移転。浄土宗。かつては吉原の遊女たちが葬られた寺であった。門柱上の招き猫は、吉原の名妓薄雲太夫の飼い猫が自らの命を犠牲にして飼い主を救ったことから弔いのために像を作ったのが起こり。また墓地には名妓二代目万治高尾の供養塔がある。
●善養寺
天長2年(825)の創建と古い。明治45年(1912)に下谷から移転。天台宗。「おえんま様」の名で親しまれる閻魔像は華徳院(杉並区松ノ木)、太宗寺(新宿区新宿)と並ぶ江戸三大えんまの一つ。「江戸名所図会」には運慶の作と記されているが、現存する像は江戸中期か後期の作といわれる。江戸時代の陶工画家尾形乾山の墓がある。
●加賀公園
加賀藩前田家がこの地に下屋敷地を拝領したのは延宝7年(1679)。加賀藩の参勤交代が中山道回りになったのがその理由といわれる。天和3年(1683)にはさらに敷地を拡大し、現在の加賀一・二丁目、板橋一・三・四丁目、仲宿の6町内にまたがる広大な面積を所有した。屋敷内の中央には石神井川が流れ、豪華な回遊庭園が広がっていた。本殿は現在の都立北園高校の辺りに建っていたという。現在は東京家政大をはじめとする学園の街に生れ変り、加賀公園に往時の庭園跡がしのばれる。
●本陣・脇本陣跡
板橋宿の本陣は中宿の名主飯田家に置かれた。また本陣の予備的役割を果たす脇本陣は平尾宿(豊田家)・中宿(飯田家)・上宿(板橋家)に1軒ずつ置かれ、各宿の名主が勤めた。
●板橋
板橋の地名は古く、平安時代に遡る。粗末な丸木橋が普通だった当時、珍しい「板の橋」が架かっていたというのが地名の由来。もっとも『源平盛衰記』にも登場するこの橋が、中山道沿いに架かっていたものかどうか確証はない。江戸時代の板橋はゆるやかな弧を描いた太鼓橋で、広重の浮世絵や長谷川雪旦「江戸名所図会」にその姿が描かれている。明治・大正期も橋形が大きく変わることはなかったが、昭和9年にコンクリート橋に架け替えられた。現在の橋は昭和47年の完成。宿場町のイメージに合わせて、コンクリートの欄干にも木目模様を施し、往時の木橋の雰囲気を伝えている。
●縁切榎
江戸時代、中山道沿いのこの地には、樹齢何百年という大きな榎が生い繁り、道を覆うように根を張っていた。いつの頃からか、この木の下を嫁入り・婿取りの行列が通ると必ず不縁になると恐れられ、「縁切榎」と呼ばれて、街道の薄気味悪い名所となった。
その由来については、富士山に登って即身成仏を遂げようとした男が、ここで妻子と最後の別れをしたからという説、榎と槻の木が並んで生えていてエンツキ(縁尽き)に通じたからという説などがある。皇女和宮の江戸入りに際しても、榎の巨木は根元から梢まですっぼり菰で覆われ、和宮の一行はその下を通って板橋本陣に向かったと伝えられている。
こうした俗信が根強く続いた背景には、当時の離婚事情があったといわれる。江戸時代の女性は夫からの離縁状(三行半で記す習慣から“三下り半”と呼ばれた)がない限り、離婚が認められなかった。そのための緊急避難所が“駆け込み寺”であったわけだが、離婚を望む女性たちは縁切榎にも祈願を繰り返し、この木の皮を削り夫に飲ませると離縁がかなうと信じられていた。縁切祈願の絵馬も奉納されたという。現在の榎は三代目。元の場所の道を挟んだ向い側に植えられている。
●智清寺
室町時代初期の創建とされる。浄土宗。山門手前の御影石の橋跡は、かつてここを流れた石神井川の分水、中用水(根村用水)の名残りである。
●日曜寺
江戸時代前期の創建とされる。真言宗。本尊の愛染明王から“愛染さま”の名で親しまれ、“藍染”に通じることから、染物業者の信仰を集めてきた。境内にはこれら業者による奉納石碑が数多い。
[TOPへ]
[沿道のコラムへ]
[コースガイドに戻る]